再び戦場の清
先日、父の2番目の妹である叔母をなくし、葬儀に参列した。そこで兄や叔父、叔母たちに昔のことを尋ねる機会があった。戦後、物資の少ない時代に祖父清が建てたという家について、私は手先の器用な祖父のことだから、実際に大工仕事に加わったのではないかと想像していたが、そういうことはなかったようだ。ただ倉庫会社にいたからか、するめをたくさん手に入れ、それが家を建てる際の支払いに役立ったらしい。物資とは木材ではなく、するめということになる。それから父の栄一が子どもの頃、清は三山商会(みやましょうかい)という店を名乗り、駄菓子屋のようなところにゲーム機(パチンコ台のようなものだろうか)を置かせてもらい、栄一にそのあがりを集金させていたということだ。金魚のえさを仕入れ、それを小分けにして販売したこともあったというが、あまりうまく行かなかったようだ。伊豆で竹炭を焼き、それを使って風鈴や苔盆栽を作り、マーマレードを煮て瓶詰めして売るなど数々の珍商売を試みた私にとって、商魂たくましい祖父の話を聞くことはうれしいことだ。また、群馬に帰省した折、父の弟、勲叔父(いさおじ)ちゃんから祖父清の戦地での話を聞かせてもらった。私にとって初めて聞く話であって戦場の様子が生々しい。清の所属する部隊は奉天で建物内にいたところを大勢の敵兵に取り囲まれ、激しい銃撃戦となった。次第に部隊の弾薬が底を尽いてきたが、部隊には捕虜がおり、この捕虜に弾薬の乏しいことを悟られないよう空の弾薬箱をさも重そうに運ぶ芝居をしたという。いよいよこれで終わりかと思ったとき、突如敵兵が姿を消す。重機関銃を積んだ援軍が現れのだ。次もまるで夢の中の話みたいなのだが、清はひとり走っている貨物列車に飛び乗ろうとしている。何とか列車の手すりにつかまったが、今度は背嚢が重すぎてどうにも体を中に入れることができない。すると列車の中から一人の中国人が手をスーッと伸ばす。日本兵を憎んでいる人であれば引き上げるふりをして自分を落としてしまうかも知れない。清はこのように考え躊躇する。しかし自力ではどうにも上がれないので、この手をつかむと車内に引き上げてもらうことができた。
賞状までもらった射撃についてだが、敵を狙って撃つ狙撃手ということではなかったようだ。先の奉天での危機一髪をねぎらってのものだったろうか。推測でしかない。戦闘では地面を掘った壕の中から銃だけを地上に出して撃ったということだ。威勢よく壕を飛び出して行った者の多くは撃たれて亡くなったらしい。清もその大きな耳を弾がかすめ気を失ったことがあったという。戦友は清が撃たれて死んだと思ったという。祖父の戦地での話は他人事とは思えない。祖父がどんな思いで招集という事態を受け入れ、妻や子どもを残して戦場に向かったのかを考えると胸が詰まる。もし私が心ならずも戦場に送り出されたとしたら、どう振舞ったらいいのだろうか。そしていよいよ敵に追い詰められた時、壕の隅の方に自分の体を隠す窪みでもないだろうか。そして自分は死んだものとして、どこか密林の奥に逃げることはできないだろうか。50歳にもなって、今さら召集されるとも思えないが、私にとって戦場ほど恐ろしいところはない。
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