現代と私の中の雑多

数年前、ジョージ=ブッシュ米大統領がイラクの空爆を開始した日、私はささやかな抵抗を示すため、紙にこう書いて食堂に貼った。「イラクの市民を守るためといって、そのイラクの市民が暮らす街を空爆するとはこれいかに!」するとそれを見た中年の女のお客さんが言ったことには「あなた!フセインに今さら何を言っても無駄だわよ!」こういう政治的な意見の違いは頭にくるだけで、歩み寄りようがない気がする。おそらく宗教や民族の対立なんかも同じことだろう。他にも憂鬱なことがある。ひとつは地球の温暖化だが、庶民の感覚からいっても危機的だ。これまで38度などという気温は考えられなかったことだ。さらに二酸化炭素の排出削減をねらって再び世界で原発の建設が進んでいると聞くとこれまた危うさを感じてしまう。自分もその責任の一端を担いでいるのだが、なんという世の中だろう。自分の娘がこれから生きていく将来を考えると暗い気持ちになった。
一方、私は去年の夏頃に右耳の後ろの毛髪のなかをダニかなんかに食われたが目が届かないところがいけなかった。かゆいところをかき壊し、出来たかさぶたを引っ張りむしりとっているうちにイボにしてしまった。また、私はここ数年の大工仕事と炭焼きで蓄膿気味だが、肺まで病んだか最近臭いのするたんが出るのも気になる。現代に生きている私は時代の悩みから逃れられないと同時に日常の個人的な悩みも併せ持つ。そこで私は自分の身に起こる卑近なことから、地球規模の話まで何でも扱える画家になりたいと思っている。と言っても私の絵の手法では最初に何かを描こうとしないのでどういう絵になるかはわからない。それに先ほどの空爆の話や温暖化の話を絵で表現しろと言われてもそれは難しい。考えや思想なら言葉で表現するのが最も適している。絵画が伝えるものはそれとは違う。だから「この絵はこれこれを表現しました。」みたいなことは言えないわけだ。ただ私は自分の絵の中で卑近なことも地球のことも、肉親も友人も歴史の人も混在して現われてよいと思っている。小学生だった私の机やその周辺、あるいは大学当時の下宿の部屋もあらゆる物が散乱、堆積し周囲にいた人々を悲しませたものだが、私の画面の中の雑多は現代に生きる私たちを映すにはぴったりなのだ。


このエッセイは2009年にまとめたものだが、その後も世界は憎しみと恐怖が増幅されているように思う。2011年には東日本大震災と福島原発事故が起こる。