絵ごころクイズ

よく、どんなものでも見事にイラストに描いてしまう人がいる。描き方を身につけていて、まるでディズニーのキャラクターばりにある種の可愛らしさをもって描いてしまう。群馬大学の同窓である江島達也君もそのひとりだ。例えば友人を茶化してその特徴を強調して描く場合でもどこか洗練され嫌味がない。当時、私は羨望をもって江島君が描く傍らで眺めた。一方、私が何かのイラストを可愛く描こうとすると、不気味さを増す。私が伊豆に移住すると児童館で図工を担当していた仲間たちが遊びに来た。家は建築中で、星空の下で食事し酒を酌み交わした。そのうち堀内君が「絵ごころクイズをやろう」と提案した。これはひとりが出したお題を皆が記憶を頼りに描くものだ。その夜は筋肉マンやディズニーのドナルドダックなどが出題されたが、皆、美大を出ているだけあってなかなか特徴をとらえている。それに対し私の描いたものは線が散らかって、似せようとすればするほど唇の厚いレスラーとリアルなアヒルに傾いてしまい、皆から失笑が出た。人が描く絵と文字には関連がある。破綻なく可愛らしいイラストを描く人はそういう文字を書く。先ほどの江島君も絵と同様に皆に愛される文字を書く。私の妻が書く字もまるで活字のようだ。私の場合は読めればいいという感じで、というか考えを繋ぎとめるために使ってきた。そうやって自分の字体を作ってきたと思う。だから手本とはほど遠く、「字が汚い、読めない」は私の代名詞でさえあったが、全く気にせず自分の字には愛着がある。同様に私の線描=スケッチも時間をかけて自分が作ってきたものだ。例えば私は一時期、夜に見た夢を日記につけていたが、話の筋書きとともに場面を絵で描くことがあった。何かを記録するためにまさに今引かれた線は生きている。しかしやはり雑は雑なので、後で思い出して描き直そうとすると余計なものが加わり説明的になり、命が逃げて行ってしまう。私は自分が今引いた線をまるごと肯定することが出来る。まさに全肯定というやつだ。ところで私はもうひとつの仕事である食堂のメニューなどを半紙に筆で書くことがある。これが慣れてくると我が意を得たりといった感じで、お客さんからも褒められることが度々あった。今まで字が下手だと言われ続けたものだからあまりの評価の反転に驚かされた。そこで私はハタと思った。人はその文字や絵によって2つに分類できるのではないかと。ひとつはブロック体の文字を得意とするタイプで、イラストなどをかわいく描くことができる。絵を描く際に対象の特徴をよくとらえ、単純化あるいは記号化することができる。そしてこのタイプの人はおそらくディズニーランドを心から楽しむことができる。もうひとつは筆記体の文字を得意とするタイプで、イラストを描いてもどこまでも自己流で可愛くならない。絵を記号化できず、多くの場合、引かれた線はつながらない。そしてこのタイプの人はディズニーランドなど他人が作った仕組みを批判的に見てしまうので楽しめない。私はこのように推論を立てた。もちろん私は筆記体型だが、友人で現代工芸の佐藤ミチヒロ君も字を見る限りでは筆記体型と思われる。いつか佐藤君にも絵ごころクイズを出し調べてみようと思う。