マーフィーの戦い(前篇)

芸大の三年間は自分の中では得るものが大きかったが、さしたる成果も出せなかったので再び、これから先について考えなければならなかった。そもそも大学で美術を指導することは最終目標ではなく、私が求めているのは絵を描くこと、自由を拡大することではないか。だとすれば作家になることだ。ではどうすれば作家になれるのか。ここでも不自由な考えの私は、画家になるには美術のコンペで賞をとるしかないと考えた。私は大学院を出ると台東区の児童館に週4日勤め、放課後の児童に工作を指導していた。そこで週3日の休みに制作し、1980年代の後半から勢いがあったグラフィック系のコンペに応募した。ところが、かなり思いつめて数年間応募したものの、いいところ入選までだった。
私は児童館で子どもが工作するのを手伝ったりしたが、自分の力も発揮できそれなりに楽しく、仲間にも恵まれ、気づけば11年目になっていた。またそれ以前、研究室に在籍しながら私立の中学高校で美術講師をしたこともある。しかしそこでの結論は、私のようなエゴイスティックな人間には、人を指導するなど無理だということだった。それに正直に言うと私は社会に協調するということがまるで駄目なのだ。例えが適当かわからないが、私は今でもラジオ体操が嫌いで、あの音楽がラジオから流れるとあわててスイッチを切る。それから日曜の昼にやっているのど自慢大会とかサッカーのサポーター、プロ野球の私設応援団、祭りの威勢のいい神輿なんかも苦手だ。私が好きなのは古い温泉旅館であり古民具の店であり、テレビの落語や大相撲観戦である。もっと深刻だったのは当時の私の生活だった。コンペの前の数週間はロッキーのようにジョギングし闘志を奮い立たせ制作もした。しかしそれ以外の休日はというと昼近くまで寝ており、起きてもだらだらとテレビを見ながら飲み食いを続け、消費を繰り返すだけ。まるで無気力。まさに廃人。ただただ虚しい。深夜になってもテレビの画面をうつろに眺め、リモコンでチャンネルをいたずらに変え、寝る決心がつかない。週3日の休みをそんなふうに過ごし、いよいよ明日、職場に行くのに風呂にも入っていない。これはまずいと思いながらもだらだらを断ち切れず、近くの世界湯の終業時間の10分くらい前にあわてて駆け込む、なんてこともしばしばあった。不摂生が影響してか、夏になると異常にのどが渇いたり、尋常でなく疲れたりした。勤めの最後の5年ほどは労働組合の役員もやっていたので、その活動にも忙殺された。そこで新年を迎える時、こんな自堕落な生活をリセットしなければと決まって誓いを立てる。

  • セルフコントロールすること。弛緩した状態を断ち切って、制作に向かう。
  • 周囲のことに感情的に巻き込まれず、自分を進めること。
  • けれど、結局は毎年同じことを繰り返した。
    ところで高校の倫理社会だったか、自己防衛の昇華の例として失恋した芸術家がその思いを芸術作品に向けるなんていうのがあったけれども、そんなこと本当にできるのだろうか。ピカソだって愛に満たされて、旺盛に制作したのではなかったか。話は少しずれるかもわからないが、「女心と秋の空」というのがあるが、もともとは「男心…」だったそうだ。さもありなん。あの前後であのように変われるのは男の方だ。

    おあずけの 雄ライオンの 狂おしき

    さて私の東京暮らしは常に廃人だったわけではなく、生活に変化を持たせようとそれなりに工夫もした。例えば飯田橋のギンレイホールの会員になっていて、ロードショーから少し遅れるものの様々な映画を見ることができた。また私にとって銭湯は狭いアパートの一室から解放されるオアシスだったが、気分を変えてあちこちを訪ねた。特に熊野前近く源徳湯の薬湯は忘れられない。また、この頃私は、休日に職場の仲間と奥多摩や秩父方面の低山をハイキングなどしたが、緑や自然に対する欲求をいよいよ募らせ、昼をだいぶ過ぎてから我慢できずにひとり電車に乗り込み渓流を眺め、温泉につかりに行くことがあった。自然やそれに溶け込む廃屋、あるいは湯船に付着した温泉の結晶などにさえ思慕を感じた。話は飛ぶが、私が中学生か高校に入りたての頃だったろうか、当時の願望を一枚の絵に描いたことがあった。それは私がバイクを傍らに止め、ナチスドイツのヘルメットをかぶり池で釣りをしているもので、池の隣には小屋がありウズラを飼っている。何ともお馬鹿な絵だが、当時から田舎志向が自分のなかにあったことに気付く。そして田舎暮らしはおそらく祖父清の庭が影響している。言うまでもないが、私にはナチスを美化する気持ちは微塵もない。確かに、東京は美術に触れる環境としては素晴らしい。美術館では様々な企画展が開かれているし、画廊を回り若い作家から刺激を受けることもできる。実際私もこれらを見て回ることで、自分の絵の方法の糸口を見つけることが出来た。しかし、それを手に入れた今、時流を追うよりも、むしろ自分の絵に集中することが大事ではないか。ここまでの戦略は、コンぺで賞を取ることによって画家になるというものだった。そしてコンペに出品するためには審査料なるものを払ってきた。それから神田の画廊で展覧会をやったこともあるが、これとて使用料を払って、展示スペースを借りたわけだ。画家として名を上げるためとはいえ、作家が身銭を払って絵を見てもらうとは何としたことか!そもそも画家になるには一つの道しかないのか?私が住んでいた谷中に朝倉彫塑館があった。朝倉文夫の自宅兼アトリエに作品を展示し公開している。庭園の池にはコイが泳ぎ、書棚には作家が集めた芸術関連の書籍などが並んでいる。私はよほど我欲が強いのか、気に入った自分の作品を手放すことができない。だとすれば絵を売って収入を得るのではなく、どこかにアトリエと美術館を建て、そこで自分の絵を見てもらいなりわい生業とするのはどうか。全く無名な私が自前の美術館を作るなど無謀な賭けではあったが、これまでの生活を続けていてよいわけはなく新天地で計画を実行する時だ。温泉好きの私はどうせ移住するなら温泉が湧くところがいいだろうと、何度か訪れていた伊豆と郷里の群馬を探した。しかし、郷里は帰る場所であって、冒険なしには得るものなしというわけで、河津七滝に土地を取得することができたのは幸運だった。こうして2000年に児童館を退職し、谷中から伊豆の河津に移住し、同時に長年付き合っていた伊崎華織と結婚する。


    『マーフィーの戦い』は、私が子どもの頃に見た映画で、ドイツの潜水艦に味方の戦艦を撃沈された戦闘機のパイロットであるマーフィーが、様々なアイデアを使って戦い、ついにはひとりで潜水艦を沈めてしまうというもの。