廣利先生のこと

群馬大でもっぱら青春していた私には芸大の学生は在学中から自分の表現をつかむことに貪欲だと思われた。それは学部の後に大学院があり、そのまま助手や講師となって残る猛者(もさ)たちがいるという人環境が大きいと思う。当初、私は教官と学生の区別がつかなかった。
芸大の美術教育研究室は、美術の指導者が自ら制作を進めることをベースに教育を考えるという理念があって、教官も様々な研究室から来ていた。伊藤廣利先生は愛媛の今治のご出身で鍛金が専門だった。槌で鉄をたたく腕はたくましく、指は鉄をおさえるうち万力のように変形していた。私たち学生は正規の講義や実習の後、それぞれの部屋で制作したが、夜も8時くらいになると伊藤先生が鍛金の仕事場から戻ってきて、「おーい、一杯やって帰るぞ!」と私たちに声をかけてくれる。研究室で焼酎なんかを飲ませてもらいながら美術することについて議論した。私たちはそれぞれ扱う素材も表現方法も経歴も違ったが、ここで伊藤先生と問答することで共通の理解を得ようとした。先生は制作や美術教育について考えることを「そうではなしに」とか「なんもかんも一緒くたに」などのお得意のフレーズをはさみながら私たちに語った。ある時「一から十まで描こうとしてはだめだ。」とおっしゃったことがあった。制作は相手(素材)に任せる、あるいは素材とのやり取りが大事だというふうに理解しているが、私の課題を見抜いていたのだろう。私の労働と無縁の小さい手を見て「なんだ、お前の手は!」と言った。また「おれは長男だから、中村みたいなのを見てると面白い。」「中村みたいなのが娘さんを下さいと言って来たらどうするんだ!」と、その少し曲がった人差し指を私の前に突き出した後、顔を上に向けて笑った。卒業後、私は大学のある台東区内に勤めていたから道でばったり先生にお会いしたことがあった。先生は病院の帰りで目の調子が良くないと言われ、私に「お前、帰ってどうするんだ!」と尋ねられた。以前のように。そして廣利先生は1998年12月12日突然亡くなってしまった。先生にはこれからもいろいろな話を聞きたかったし、私の家族も仕事も見てもらいたかった。また自分の身方があちらへ行ってしまった。
先生と私

タバコの煙の奥で語る廣利先生と私