猫の皮、母のひじ

父が亡くなったことは私にとって受け入れ難いことだった。当時私は東京の児童館に勤めており、自転車で通っていたが、信号などで止まると空を見上げ、父を思うと泣けてきた。母も同様に悲しんでいたはずだったが、薄情な私は母をいたわらなかった。数年後、私は勤めを辞め、あわただしく伊豆に移り住み結婚もした。しばらくして母は誰と話をしていいかわからなくなったと言って、妻の母親に電話をかけてきたことがあった。私はこの時も母を叱ってしまった。私はまだ知らなかったが、この頃から母はアルツハイマーにかかっていたようだ。その後、母は伊豆の私の家に遊びに来たことがあったが、私はこの病気の知識もなく、何度も同じことを聞き返す母にいらだって、床にスリッパを叩きつけて怒ったこともあった。
母の光枝は昭和7年、安中の秋間というところに生まれた。旧姓は時澤という。長女で下に弟妹が3人いた。父とどういう接点があったのかはわからない。私の兄の上にはもう一人男の子がいて、生まれてすぐ亡くなったようだが、ある時母は私に「あの子が生きていれば武は生まれてなかったいねえ。」と言ったことがあった。私は当時意味が分からず、また真意を尋ねることもなかったが、母にはこのように悪意ないのだが人がギョッとするようなことを言うところがあった。
私は小6まで毎晩のように寝小便をし、また我がままな性分なので母には迷惑をかけ通した。幼いころの私は甘えん坊で、母が座っている傍らに仰向けに寝転んでは、母のひじをつまんだりして遊んでいた。両手の人差し指と親指で母のひじの皮を内側に折り込むようにしてつまむと二つのひだを作ることができた。するとこのひだが上下の唇で、つまんでいる両手の人差し指の爪が目となって、垂れ目のオバQのような顔に見えた。私はそんなことをしながら母にべったりとくっついていた。当時、私は母がいなければ生きて行けないと心底思っていた。それが、思春期になるとことごとく親に反発するのだからわからない。
ところで私が14年間暮らした台東区の谷中は、猫がたくさんいる街で、私は銭湯へ行く途中などに猫を見つけるとなでたりしていたが、次第になでるだけでは物足りず、その柔らかい皮をかじってみたいと思うようになっていた。ただ、さすがに野良猫をかじる勇気はなく、実行できずにいた。その後、私は伊豆に移住し古民家再生にかかると、その家に一匹の雌猫が住みつくようになった。この猫は雌として魅力があったかして避妊手術するまで三度出産し一度に5,6匹ずつ子猫を産んだ。私は晴れて猫たちの皮を引っ張ったり、またかじったこともある。猫の皮フェチともいうべきこだわりで、まことに変態ぽいが、おそらく母のひじと関係があるだろう。また私は鼻、あるいは鼻の穴にも抑えがたい欲求があり、1歳の娘の鼻をたまらずかじってしまうことがある。

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