栄一のこと

父、栄一は昭和2年生まれ、長男で下に妹が3人、弟が一人いた。父は鼻筋が通り目が大きく、家族や親戚筋の間では藤田まことか高松秀夫に似ていると言われていた。子どものころは相当な悪ガキで、祖母らの話では、そろばんを両足にはき他の子に引かせ学校の廊下を走ったという。そういう悪さをしては祖母が謝りに行ったそうだ。
父は国民学校高等科を卒業すると、逓信講習所を経て16歳で東京の中野郵便局に勤める。結婚後、職場は高崎線沿線の深谷、鴻巣、上尾と徐々に遠くなっていった。子どもの私が朝起きる頃には父の姿はなく、食べ散らかした飯椀があるだけだった。ひと頃、父は休みの日まで仕事を持ち帰り、恐ろしくでかい電卓で計算などしていたことが、一緒にこたつにあたっている私が誤ってこたつの脚に触れると「揺らすな!」と叱った。また、きかん坊の私は度々兄とけんかをして叱られだが、そんな時父は口を大きく開け、口の前に自分のげんこつを持っていくとハーッと大げさに息を吹きかけた。これは「やめないと殴るよ」という脅しなのだが、実際には一度も殴られたことはない。ただ、父は怒りを爆発させ物をたたきつけて壊すことがあった。そして、いったん怒りが収まると、しょげている私に「あー勘弁なー、勘弁なー」と言って謝った。機嫌のいい時の父は私をまるで猫かわいがりし、「たけちぼく」と呼んだ。この機嫌次第という子どもとの接し方は、今の私がそっくり受け継いでしまったようだ。いや、私の方がもっとたちが悪いだろう。私の上の娘がまだあまりしゃべれない1歳くらいだったと思うが、その子を抱っこしている妻と言い争いをし、放っておかれた娘がポカンとしていたことがあった。またその子が少ししゃべれるようになると原因は忘れてしまったが、私があれこれうるさく言ったのだろう、娘は「とうちゃん悪い!」とだけ言って、後はワーッと泣いてしまった。これにはさすがに応えた。

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郵便局に勤めていた当時の父

父は、ゴジラやモスラなどの怪獣映画の他に、父の好みの映画にも私たち兄弟を連れて行ってくれた。それは森繁久彌やクレージーキャッツ、ドリフターズ、コント55号などが主演した喜劇映画だった。植木等はあるキャバレーの経営を立て直すため、客が他に気を取られているすきに飲みかけのビールをホステスに集めさせ、調理場で再び栓をしては客に出した。また、ドリフの面々は互いを縄で結び、身を投げようと崖の上にいた。そこで、やっぱり死ぬのはよそうと話がまとまるのだが、ブーがそれを聞いていなかったために一人飛び降り、皆もろともに落ちて行ったりした。
ある日、父は私たちをデパートのゲームフロアに連れて行って、ボーリングをさせようとしたことがあった。それは簡単なボーリングの遊具で、投じたボールがレーンの床についているボタンを押すとピンが跳ね上がる仕組みだった。父はまず私たちにボーリングの手本を見せようとしたが、どうやらピンは球の勢いで倒れると思い込んでいたらしく、球を後ろから大きく振って投じたが、球は上に上がったかと思うとそのままレーンの中央にすさまじい音をたてて落ちた。フロアは静まり返り、その場にいた人々は何事が起きたのかと父を注視した。また夜店で金魚すくいをした時のことだ。父は私たちに何とか金魚を持ち帰らせたかったのだろう。屋台のおじさんの目を盗み、椀に水を入れるふりをして金魚を入れてしまった。そうやって手に入れた金魚を一時、水槽で飼っていたことがあったが、ある日その汚れた水を簡単にかえられないかと考えた父は、よく細いチューブの端を水につけ、もう一方の端を口で吸ってサイフォンとして使うことがあるが、これをやろうとした。浴室に水槽を運ぶと、細いチューブがないので蛇口につけるホースで代用した。父はその端を水槽の水につけ反対の端を口でくわえてそれを吸ったが、汚水を吸い込んでしまい、ゲホゲホッとむせ返った。またこの時、金魚までホースに吸い込んでおり、何とか取り出した金魚は瀕死で、父はそれを私に見つからないように排水溝にうやむやにした。何年か連続で夏休みに私と兄は両親に連れられ新潟の柏崎に海水浴に行った。乗り物に弱かった私は電車でも酔い大変な思いをしたが、電車の窓から初めて海が見えた時の私たち兄弟が喜んだこと!私は樽をかたどった何かの空き容器に油粘土を入れ持って行ったりした。旅先で遊べると考えたのだ。そんな旅の途中で何かの事情で電車が動かず止まってしまうと、さあ父の出番だ。駅長室で「だめじゃないか!」と怒鳴っている。また父は込み合う車中でもたばこを吸い、近くの女性が煙をよけるようにしたといっては、それにもかみついていた。祖父の清が子どもの頃、栄一を厳しくしつけたのだろうか。私には父が祖父の前で妙におとなしくしているように見えた。一度だけ父からこんな話を聞いたことがある。父が小さかった頃、父の祖父である金太郎が家の近くを通った夜鳴きそばの屋台を呼び止め、布団の中でそばを食べさせてくれたことがあったという。父にはこういうことがうれしかったのだと思う。祖父の死後、父はたびたび祖母のゆきと言い争いをした。また、ゆきの姉、父からすれば叔母が家に遊びに来ていた時、もう我慢ならんという感じでブチ切れ、叔母を追い帰してしまったこともあった。父は定年前に郵便局を辞め、母の妹の夫が独立しそば屋を開業するというので出前持ちをして手伝っていたのだが、ここでもその妹とけんかし辞めてきた。こういう抑えようのない怒りが父にはあった。そして、どうやら私はこれも受け継いでしまったようだ。
私は大学に入学し前橋で一人暮らしを始め、その後は東京で進学と就職もしたが、その間、両親を省みることもなく実家にも年に一度帰る程度だった。しばらくぶりで帰省した折、父の様子を見て少し足が弱ったかなと思ったが口先だけで何もしなかった。その後、兄から父が入院したという連絡を受け、面会に行くと父は頭部に水がたまり、話すこともできなくなっていて、私が肩などさすると目にうっすらと涙を浮かべたように見えた。
1999年8月22日に亡くなる。72歳。