画面の裏のストーリー

幼い日の記憶は遠く、本当にあったはずなのに、夢のなかのことのように思える。一方、夢で見たことは実際そんなことがあった気がするのだ。

私の絵の手法では、あらかじめこれを描こうと思ってスケッチをとるということはない。煤けた天井板の木目や節が顔に見えることがあるが、私は画面上に偶然現れた何かのかけらを補筆して絵を作っている。この方法では、私がこれまで経験したことや見聞きしたことが元になっている。つまり、同じシミを見た場合でも私と他の人とでは見えるもの連想されるものは異なるはずだ。そうなると今までの私の惨めな体験、ムキな思い、みみっちい性格まで捨てがたい。そういえば、ニューペインティングのフランチェスコ=クレメンテは「私は耳で描く。」と言ってたっけ。私もここ数年は、齢(よわい)を重ね気が弱くなったかして、画面には母や今は亡き父や祖父母、あるいは昔、傷つけてしまった友人などがよく登場するようになった。例えば、それが祖父であれば、子どもの頃、祖父から聞いた中国での軍隊時代の話などが描き加えられることになる。私の作品の中でもこういったタイプのものは、私小説ならぬ私絵画ということができるが、知った顔が現われて喜んでいるのは私だけで、私以外の人は置いておかれている。そこで、なんとかその溝を埋められないかと考え、鑑賞者が画面の裏にあるストーリーを知って作品を見る仕掛けを思いついた。すなわち画面に描かれた人物が特定できる場合はそれを示し、その人物や周辺のことについてはエッセイで探ることができるようにした。
また、私の好みということだろうが、ギリシア神話や西欧の中世の闇に引っ張られることが多くあり、ケンタウロスや西欧の僧などが繰り返し登場する。幼い日に見て私を虜にした冒険映画が影響しているのは間違いないのだが、なぜこうも魅かれてしまうのか。それから画面には知り合いやケンタウロスばかりでなく、身に覚えのない人物や場面も登場する。唐突だが私には以前から腑に落ちないことがある。それは現在50歳の私だが、それ以前は無だったとは思えないということだ。やや宗教的だが、先祖の生を借りてあらゆる時代を生きていたという方が納得できる。さすがに西欧人だったことはないと思うが、古代も中世の時代も何とか生きていたはずだ。だとすると、前世の記憶が無意識のうちに画面に現れることもあるのではないか。私の絵は、私が描いたというよりもどこか遠くの方からやってくる感じなのだ。


[マーフィーの戦い(前編)]で無気力を断ち切れなかった日々を書いたが、いま確かに生活は大きく変わった。家づくりは果てしなく、食堂の他にも、炭焼き、薪拾い、魚の世話と何かしらやることがある。しかし、田舎暮らしですべての問題が解決されるわけもなく、新たなストレスや悩みの種さえ生まれ来る。そこで家族が寝静まると自分を慰め甘えさせるため、ひとり酒を飲み食べることがある。こんなことをすれば翌日は使いものにならず、体に悪いことは明らかだ。そこで冷蔵庫に「夜食やめること!」と貼り紙をするが、そのつど誓いを破っている。私が今なんとか人間としていられるのは、ユニークな二人の娘、そして情け深い妻のおかげだ。

寄せ返す ぼし母子の寝息 夜の海

何とかして早くあの潜水艦を沈めること、つまりは長年の悲願とも言うべき美術館と画集を完成させ、すがすがしい気分を味わいたいものだ