夢日記と勘違い
上の娘が2歳くらいの頃、言葉を間違えて覚えることがあった。私たち夫婦はそれを直して教えてしまうのが惜しくてしばらく家庭内で娘が作った言葉を使っていた。それは例えば、おだいま(ただいま。お帰りとただいまが合わさったものか。)、みえまる(丸見え)、こもど(こども)、よぼれる(汚れる)、しむ、しませる(死ぬ、死なせる)などである。私がコンクールに出品していたころ、誰もやったことがない表現や自分のオリジナルな表現を模索していた。表現の中身は大まかに言って「いかに描くか」ということと「何を描くか」ということだが、それぞれについて私が描く必然を問うことになる。まず、何を描くかについてだが、確かなものは自分が実際に体験してきたことや感じていることだ。前に書いたように、私は自分の中に猫の皮をかじりたいという異常とも思える欲求があることに気づいて想像でスケッチにとったりしたが、これなどはその例だ。
また、友人に連れられてバレエの公演(白鳥の湖の「セシル」)を見に行った時のことだ。その中で白鳥を狙う弓が出てきたが、その弓にキリストの磔刑のレリーフが付いていて面白いと思った。けれど考えてみれば武器の装飾に磔刑が使われるわけもなく、つる草か何かだったのだろう。けれどもこういう見間違えも自分のオリジナルな見方ということもできるわけで、新たな創造の種となることもあるだろう。この時私は自分が見間違えた弓を真鍮を使って作ってみたが、技術がなくもうひとつの出来だった。あるいはホール&オーツの曲に「ダンスオンユアニーズ」というのがある。当時私は、これを「あの子の膝の上で小さな私が踊る」と解釈し、クロソフスキーが描いているスケッチのようなイメージを持っていた。けれどもこの「オンユアニーズ」は膝の上ではなく、ひざまずいて踊るという意味だろう。けれども間違った解釈ではあるが最初の少しエッチな想像が捨てがたい。またその当時、横尾忠則、J・ボロフスキー、大竹伸朗と私の好きな作家がそろって夢日記をつけていることを知った。(後に、つげ義春もこれをつけていることを知る。)夢も眠りの中ではあるけれど、自分が体験していることと言えるかも知れない。それに平凡な日常にない冒険が展開される。そこで夢日記をつければ個人的な絵の題材が得られるのではと考え、数年間やってみた。朝起きると手近のノートに夢の内容を走り書きするのだが、覚えていないようでも記憶をたぐっていくと芋づる式に思い出される。夢も創作の一面があるのか、慣れてくると面白い夢が見られるということもあるようだ。結局、私がたどり着いた絵の方法では、前もって何かを描こうとしないので、自分が描くべきものは?などと考える必要がなくなった。だから私の個人的な勘違いも夢の内容もそれをそのまま絵にすることはなかった。ただ私の絵の方法ではスケッチなどもとらず(対象に頼らず)、偶然に見つけた断片を復元し絵を作っている。頼りは私がこれまで見聞きしたものと画力だけだ。そういう意味ではマイアートと言えるだろう。
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