山口のおばさん
上京した私は京成お花茶屋の駅に近いアパートを借りたが、2カ月ほどでそこを出ると彫刻科の先輩の紹介で大学に近い谷中墓地に面した第一青葉荘の4畳半に下宿した。ここに山口チホという元気なおばさんがいた。おばさんは当時67か68歳、髪が真っ白だったので自らをジャパニーズモンローと名乗っていた。水俣の生まれで、娘家族は同居を勧めたが、ここで一人暮らしをしていた。おばさんは度々私をお茶に呼び、お手製の総菜や漬物はなどを出してくれた。おばさんは率直な物言いでユーモアもあり、政治の話なんかもした。働き者で道路わきのわずかな土を耕し野菜を育てた。下宿のあった谷中墓地は桜並木が続き、春になると花見客でにぎわった。おばさんは酒が飲めなかったが仲間とともに踊るなどして楽しむ一方、ボランティアで掃除をした。私も手伝ったことがあったが、花見の後のごみ置き場は処分場の有様で手つかずの弁当や缶ビールがひと箱未開封のまま捨ててあったりした。私たちは気が合いよく冗談を言い合ったが、一度だけ、朝私がまだ寝ているとおばさんが下宿の掃除をしていて廊下側から私の部屋のガラス窓をはたきでガシャガシャたたいたので口げんかになったこともあった。そして、これはある夏のことだ。その夏はまさに猛暑で、夜になっても寝苦しいので私は裸になり手ぬぐいを水でぬらして胸の上に置いて寝ていた。朝になったかして寝ぼけた頭の中におばさんの笑い声が聞こえ、何かが私にどさっと落ちてきた。目覚めた私はただちに事態を理解した。どうやら私は前夜、廊下側の窓もすべて開け放して寝ていた上に、下半身も露出させて寝てしまったようだ。おまけに私のものが元気よく突起していたのである。おばさんは階下の新聞受けから私の新聞を取って私に渡そうとしてそれを見つけ、新聞を投げてそれを隠そうとしたものらしい。第一青葉荘が取り壊されるというので、私は谷中銀座商店街の近くに、おばさんは志ん生が噺のけいこをしたというお諏訪さまの隣にそれぞれ移った。しばらくぶりで会いに行くと、おばさんは数日体調をくずしお茶だけで命をつないだと話したこともあった。その後、私は職場でもプライベートでも忙しくなり、しばらくおばさんを訪ねて行かなかった。そしてそのまま退職し、あわただしく伊豆に移住し式も挙げず結婚してしまった。数カ月して久しぶりに谷中界隈を訪れ、おばさんにもろもろの報告をしようと部屋を訪ねるとおばさんは留守のようだ。となりの老人福祉施設を訪ねて聞くと、おばさんは数か月前に亡くなったということだった。おばさんの写真一枚持っていないことが悔やまれる。私が思い出して描いた絵が一枚あるだけだ。
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