夢の日々

一浪して地元の群馬大学(教育学部美術科)に入学する。前橋市田口町の渚荘に下宿し、念願の一人暮らしを始める。当初、渚荘の下宿の仲間は私を入れて3人いたが、交代で風呂の掃除を沸かし、晩飯を作ったことが懐かしい。大学生協でレコードプレーヤーを月賦で購入すると、レンタルレコード店で洋楽を借りて毎日のように聞いた。ボビーコールドウェル、ポールデイビス、エアサプライ、TOTO、REOスピードワゴンなんかを聞くと、春の風とともにあの頃の解放感まで思い出される。(後に荒牧町吉村方へ移る。)私が在籍した美術科は、学生の自治ができていて、先輩たちは私たち新入生を歓迎するために赤城の大学寮まで歩く夜登り合宿などを企画してくれた。学園祭では1年の男子が女装してホステスになるのが恒例となっており、認識に誤りはあるもののゲイバー「モモエ」というのが店の名だった。ともかく私はこのホステスを演ずるのが好きで1年では飽き足らず、江島君や先輩の浜名マンらと少しエロティックでコミカルなショーを完成させ。メンアットワークのイントロが店内に響くと、私たちのショーの始まりで店内の大勢の客が熱狂した。私は後進に道を譲らず結局4年間すべてホステスをやった。演劇部にも入りいくつかのキャストもしたが、我ながら下手だった。それでもミュージカル「もっと泣いてよフラッパー」は軽音楽サークルンの生バンドも入り評判が良かった。皆で合宿して練習し、徐々に公演の日を迎えるあの感じがいい。アルジャロウ、ジョージベンソンなんかを聞くと、恋もしていたあの頃が思い出される。絵の方はというと2年の頃からピエール=ボナールに傾倒して、これまたいくつもの恋をしてはボナール風の絵を描いた。しかし絵づらを真似てできるものではなく、うすっぺらなものに終わった。

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学園祭のゲイバー「モモエ」のホステス
奥が私、手前が佐藤君

3年の夏にはボナールの足跡をたどろうとフランスを中心に53日のヨーロッパ旅行をしたが、イギリスに渡ってすぐ金を盗まれ、貧乏旅行となった。また当時私は、体育科の教官で市民ランナーの指導者である山西哲郎先生の熱烈な信奉者だったのでジョギングをしたり、ロードレーサーに乗ったりしていたが、4年の夏には師に扇動され仲間と一緒に笠木透率いるFOLKSを学内に呼び、コンサートを開催した。この年はハッとするようなかわいい彼女もおり、得意の絶頂だった。当時の私は美術科や演劇部に加えていくつものアルバイトや某民主団体の活動などをかけもち、走り続け息苦しいほどだった。もともと大学受験に失敗し、しばらく下痢が続くほど気落ちしていた私だったが、何のことはない、この群馬大の4年間は自由な風を感じ、仲間にも恵まれた夢のような日々だった。それもつかの間、卒業し東京芸大へ進学すると間もなく彼女とも別れ、大きな痛手を受ける。いつまでも心は群大にあったが、人はふたつの場所では生きられない。東京での生活はすでに進行していた。