清のスタイル
私は福島県の伊南村と南郷村にあった古民家(そのひとつは築150年という)の骨組みを伊豆の河津に移築し、自分で土壁を塗り解体現場でもらった廃材で床をはるなどし8年がかりで再生させた。また石と土で炭焼き窯を作って竹炭を焼き、果樹の苗木を植えたりもした。そして五右衛門風呂を沸かし山の端を眺めながらつかる時、こういうことは私の中の祖父がやらせているのではないかと思うことがある。
私が物心つくころには祖父はすでにリタイアしていた。祖父は普段から着物を着ていて、姿勢よく正座していたのを思い出す。食事をするときにはさらに背筋をぴんと伸ばし、箸で食べ物を口に入れるとその肘を張り、箸の先端をちゃぶ台に垂直にあて腕を支えた。左手は膝に添えるか腰にあてられている。そのようにして、その一口をいつまでも噛んでいる。特に塩辛い鮭が好きで、ほんの小さな一片をおかずにご飯を食べた。そして鮭を食べる度に「しゃけってやつぁー噛みしめると非常にいい味が出る。」と言った。
新聞は端から端まで読み、テレビ欄では相撲や落語や時代劇なんかに印がつけられた。広くはない庭だったが、池を造り柿やザクロや梅などを植え、ブドウの木で棚も作った。入口から玄関までは色とりどりの玉石が敷かれ、その両側に庭石やもみじ、しゅろなどを配した。鶏小屋を作りきれいなチャボを飼ったこともある。毎日が休日であっても盆栽の手入れや庭いじりや工作など何かしらやることはあったろう。
縁の下には土埃にまみれた廃材がとってあり、引っ張り出してはいろんなものを作った。大きいものでは縁側の続きに3畳ほどの下屋を建て増し、そこにミシンを置いたりした。清は大工仕事を子どもの私にも手伝わせてくれたが、私が釘を打ち終えたりすると「うまいっ!」とほめてくれるのだった。「昔の人は偉いねえ。ちょうどおなかのすく時間が10時と3時だ。」と言って、お茶にする。ゴールデンバットを吸うときは、背筋を伸ばして煙を余さず吸い込み肺に満たしたのち、丸い鼻の穴からふーっと吐いた。
水戸黄門の再放送や相撲などをテレビで見て、精一杯笑ったり歓声をあげた。店でもらうマッチ箱の蒐集もしていて、スクラップブックに貼って整理した。口をあんぐり開け大きないびきをかいて昼寝をした。
当時、私たちはティッシュではなく、ちり紙を使っていた。ちり紙はかさ張るので大きなビニールの袋に包まれていたが、祖父はそのビニールをちり紙の大きさに裁断すると2,3枚のちり紙で両側から挟み、四隅をホチキスでとめ特製の鼻紙を作った。何とも手のかかることをしていたものだが、鼻汁がしみこまず経済的と思っていたのだろうか。ともかく鼻をかむときには着物の袂からこの鼻紙を取り出してはこれに余さずにし、かんだ面を内側にたたむと再び袂にしまいこむのだった。
夏の夕方、風呂からあがるとふんどしのまま廊下に出て、そこに置いてあった布地を張った大きな折りたたみ椅子に体をあずけた。そこに涼んで庭を眺める時どんな心持だったろうか。
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