ホルモン天井

私が育ったのは高崎市大橋町というところで、信越線の北高崎駅から歩いて5分ほどのところに生家があった。家は物資の乏しい時代に、祖父が苦労して建てたということだ。当時は周囲に人家もなく、今では信じがたいが鹿が見られたという。
アルミサッシが取り付けられる以前は夕刻になると、戸袋からガタガタと雨戸を引っ張り出しては閉めていた。私が幼かった遠い昔のことだが、夜中に大きな台風が接近しており強風で雨戸がしなって外れそうになるのを大人たちが内側から押さえていたことがあった。今となってはまるで夢の中のシーンのようだが。トタンぶきの屋根は何度かコールタールが塗り重ねられていたが、後年は激しく雨が降ると部屋のあちこちで雨漏りし、バケツや洗面器を置いた。特に風呂場ではバシャバシャ流れた。
それでも父は当時の流行り言葉だったろうか「うちは中流だ。」と軽口を言っていた。その中流の休日の過ごし方だが、たまには両親と兄とデパートへ行き、おもちゃ売り場で戦車やジープのプラモデルを買ってもらい、最上階のレストランで昼食を食べた。私は決まって四角いバターがのったホットケーキを食べた。小さなポットには蜜が入っている。父はそんなに酒が強くなかったが、気分が良かったのだろう。ビールを頼むことがあった。ある時父は酔ってコップを床に落とし割ってしまったことがあった。片づけに来た店員に父は「子どもがふざけて…」などと言って私たちのせいにした。
しかし、たいていの休みの日は家にいて肉の福田屋で買ってきたカレーコロッケ、メンチカツ、ハムカツ、ポテトフライなどを皿に盛り、各自パンに挟み、牧伸二を見ながら食べた。新雅というラーメン屋で出前をとるのも楽しみだった。三時のおやつに清水屋の大判焼き(今川焼)を買ったりもした。家には車もなかったので、夕飯を外でとることなどめったになかったが、近所に金華亭というホルモン焼きの店があってたまには行った。そこは製造工場もあったので前の道路には洗い水が流れ、そんな匂いがした。金華亭では決まってモツ、ハツ、レバーを頼んだ。ジュースを取ってもらうこともあった。しかし、たいていは袋詰めのモツ三種を買って帰り、専用のガスコンロで煙をモクモクさせながら食べた。

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父のアルバムで見つけた雲の写真。父はこの形に何を見たのだろう

居間の天井は長年モツを焼いたため煙と脂でいぶされていた。子どもの頃、今にもまして怠惰な私は休みの日などは昼近くまで寝ており、終日家でダラダラしていたが、居間に寝転んでいるとその天井の木目模様が目に入いる。そして、しばらく見ているとじわじわと動いているように感じられた。私はこれを眺めながら当時テレビで見ていたような怪物や海賊などが登場する冒険ものを空想した。後年、私は大学で絵画を学んだが、オーソドックスな絵画になじめず自分のスタイルを長いこと模索していた。そしてようやくたどり着いた絵の方法は何のことはない、幼い日に見た天井板の冒険ものだった。