清とゆき

私が一緒に暮らした父方の祖父は、明治33年の生まれで、名を清と云った。清は小学生の時、特待生で本人は進学を希望していたようだが親の言いつけで呉服屋に丁稚奉公した。短気な性格だった清は客とけんかしてその客を布団にくるむと二階から道
に落としたことがあったという。客は祖父にされるままになっていたのだろうか。不思議な話だ。祖父の父親は金太郎といって群馬県の南端、埼玉県に接した新町というところで絹織物の女工さんらに足袋などを売る商売をしていたようだ。清も奉公が明けると金太郎の仕事を手伝っていたらしい。

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清とゆきとその子供たち。後方に立っているのが私の父、栄一。

祖母のゆきは明治40年の生まれだから祖父より七つ年下だ。東京で生まれ育った祖母は孫の私から見ても美人でどこか品があった。一時は裕福な家庭だったようで、近くに鳩山一郎邸があり、よくその家の子と遊んだということだ。裕福だったのはその母親の実家だったか。けれどもその母は病弱だったらしく、ゆきが小学6年生の時に亡くなってしまう。ゆきの父親は、商社マンとしてイギリスにいたことがあったという。1923年9月に発生した関東大震災で自宅が倒壊し、父親の実家があった群馬県の玉村町箱石というところに移ることになる。震災当時、ゆきは電話の交換手をしていて、職場から父親の実家まで歩いて避難したそうだ。玉村は清が住んでいた新町の北に位置しており、清は仕事でしばしばこの玉村町箱石に出かけており、そこでゆきと出会うことになる。祖父によればゆきの身じまいのきちんとしているところが結婚を申し込む決め手になったということだ。
余談だが、高崎の観音様の近くに清水寺がある。平安時代に坂上田村麻呂が勧請したとある。その観音堂に高崎出身の浮世絵師、一椿斎芳輝(いっちんさいよしてる)が描いた16枚の板絵がぐるりと飾ってあるが、この芳輝という人はゆきの先祖にあたるということだ。私も何度か清水寺を訪れこれを眺め、しばし感慨にふけった。ただこれらの絵は雨風にさらされてか、いよいよ痛みが進行し残念だ。
清とゆきは結婚後も新町に住み、清がミシンを踏み生計を立てた。まだ小さかった千鶴子叔母(父のすぐ下の妹)の記憶では、狭い店内はお客の女工さんでいっぱいで、清が面白いことを言っては女工さんらたちを笑わせていたようである。しかし縫製の仕事は長続きせず、清は埼玉の上里町神保原まで自転車で通い遊技場の手伝いなどもしたということだ。
昭和12年、清は兵隊として召集され中国に渡る。「10歳を頭に4人の子どもを抱え、留守をやりくりしたゆきは大変だったろう。」とは千鶴子叔母の言だ。私は子どもの頃、清やゆきから戦争当時の話を繰り返し聞いた。ゆきは戦地の夫を心配したが、近
所の人が「清さんは鼻の下が長いから、そこを鉄砲の弾がよけるから大丈夫だよ。」と言ったので大笑いしたという。戦争中、食料など必要物資は配給制だったが、米もその他もまるで足りなかった。特に都会に暮らす人々の食糧不足は深刻で、ゆきたちも「買い出し」に行かなければならなかった。買い出しと言っても店ではなく農家で着物などと農産物を交換してもらうわけだが、中には足元を見て良い着物でもわずかなものしかくれない所があったという。その他、闇市でも食料を調達したが、何とかして手に入れることができたも警察に見つかって没収されることもあった。
一方、清は徴兵検査で泳げなかったので二等兵で入隊する。軍隊では、みかんの皮を干して唐辛子の粉と混ぜたのを部隊の仲間に分けたところ大変好評で、あっという間になくなったという。また、燃えている橋へ戻ろうとする中国人の少女を助けた話など。私が子どもの頃聞いていたのはこういう話だったので、祖父の周りでは戦闘はあったのだろうかと不思議に思っていた。最近、このエッセイをまとめるにあたって千鶴子叔母に祖父母のことを手紙で教えてもらい、私の不確かな記憶や勝手な思い込みを正すことができた。そして祖父の軍隊生活についても私が初めて聞くものがあった。それによると清は射撃の名手で、叔母はそれを表する賞状を見たことがあるという。そして清は「上官の命令で狙撃をやらされたが、とても後味が悪い思いがする。」と言っていたそうである。戦地ではむごいものも見、家族にも言えないまま自分の胸にしまいこんだつらい思いもあったのかも知れない。
清は3年ほどで復員したが、今度はゆきが病にかかり、病床に伏すことになってしまう。清は戦友の紹介で高崎倉庫に勤めるが、日本が太平洋戦争に突入すると空襲が激しくなり家族を山間の秋間村(現在の安中市)に疎開させる。私の母はこの秋間の生まれであるから、こんなところから父との接点があったのかも知れないが、今となってはわからない。清は二度目の召集があるのではと心配したが、それはなかった。これまた余談になるが、私が幼いころ祖父たちが「戦争がもう少し長引いていたら栄一も招集され死んでいたかも知れない。」と話していたので、幼い私の中では父が零戦のコックピットに乗り込み出撃を待っているところに戦争を終える知らせが届くといったシーンが出来上がってしまった。終戦後、物資が不足していたころだったが、苦労して高崎市大橋町に念願の家を建てる。清はその後、栗本牛乳に勤め、ゆきと共に二男三女を育てた。そして清は1983年に亡くなる。享年83歳。ゆきが亡くなったのは1995年、享年89歳。